


【最終回】高専からアメリカの大学に編入した話。

長岡高専生が作る新しい就活の形。オンラインインターンコンテストとは??

今回の記事は、釧路高専電気工学科からはこだて未来大学で情報デザイン専攻へと進んだ須藤か志こさんの寄稿記事です。
なぜ、専攻を大きく変えたのか?
トビタテに採用されて行った海外で何があったのか?
などについて前後編でお届けします!!
こんにちは、須藤か志こと申します。
私がなぜ高専マガジンさんで記事を書かせていただいているかと言いますと、実は私は元高専生。15歳から21歳までの多感な時期を高専生として過ごした、れっきとした高専生です。
私が通っていたのは北海道にある釧路工業高等専門学校です。2年次から電気工学科の学生として勉強をしてきました。
今回は高専マガジンさんで、私の進路について書かせていただくことになりました。
少し長いですが、最後までお付き合いください!
私は現在、公立はこだて未来大学という大学に通っている大学4年生です。
釧路高専を卒業したあと、3年次編入をしました。
その後紆余曲折あり留年することになり(このあたりはこちらの記事をご参照ください)、3年生を1回、4年生を2回することになりました。それもまた人生……。
大学で学んでいるのは情報デザインという分野です。「ん?さっき電気工学科卒業したって言ってなかった?」そう思ったあなたは勘が鋭い。私は、かなり大きく分野を変えて進学した編入生です。
なぜ電気工学科出身の学生が、デザイン分野に進んだのでしょうか?
北海道の東側の街・釧路出身釧路育ちの私。中学2年生のある日、釧路高専のオープンキャンパスに出かけることになります。
他の高校と違い、様々な実験や試験を見学させてもらったり、自由な校風な特徴的な課外活動に触れることができた私は、大きな衝撃を受けました。
「高専ってとこに行ってみたい!」
そう思った私は、2011年の春、無事に釧路高専に入学を果たします。
私が進んだのは電気工学科。女子学生は当時4名いましたが、それに対して男子学生が40人弱でした。うまくやっていけるか心配でしたが、クラスはなんだかんだ楽しく、大きなトラブルもなく過ごしていました。
しかし、もともと理数科目が苦手だった私は、数学や物理などに加え、専門科目に苦戦することになります。
「本当にこの道でよかったのだろうか?」
齢17にして人生の岐路に立たされた気分でした。実際、電気工学科を選んだ理由もあやふやで、自分がこのままどんな職業につき、どんな仕事をするのかなんて、まったく想像もつかなかったのです。ただただ専門への苦手意識だけが募る中進路について模索することが多くなりました。
そんな折、ちょっとしたご縁があり、地元のコミュニティラジオ局の番組に出演させてもらうことになりました。
はじめてのラジオ出演でしたが、これがかなり好評をいただくことができ、そのまま1人で(!)20分程の番組を持たせていただくことになりました。
「発見し、自分の言葉で発信すること」に興味を持ち出したのはこの頃です。
そして釧路地域の話題に敏感になり、まちづくりや都市計画、地域社会の分野に興味を持ち始めるようになりました。
学年があがるにつれ、実験やテストで忙しくなる日々でしたが、19歳、つまり4年生のときに最も心血を注いだのは学生会長としての務めでした。
周りの優秀なメンバのおかげで高専祭を乗り切り、ふと気がつけば4年生の後半。いよいよ進路を決めなければいけません。
何も決まっていない空っぽな私でしたが、そんなある日過去に通っていた英会話教室の先生からメールが届きます。
「高専に通っているうちに留学しないの?」
彼女は、私が「いつか留学に行ってみたいなあ」というぼんやりとした夢を語っていたことを覚えてくれていたのでした。
「お金のことで困っているなら、奨学金という手もあるよ」と教えてくださったのが、「トビタテ!留学JAPAN」という給付型の奨学金制度でした。いまでこそ高倍率の超有名奨学金ですが、成績不問ということでポンコツ高専生の私にもチャンスはあります。
「お金のことがなんとかなったら、学生のうちに留学に行きたい」
いま思えばあまりにも雑な動機でしたが、なかば現実逃避にも似た状況で留学プランを立て始めます。
一応電気工学を専攻している手前、留学テーマをうまくまちづくりなどに結び付けられないかと模索し始めていると、留学担当の先生(この先生には大学編入や卒業研究も本当にお世話になっています)が「フィンランドのトゥルクというところにある大学なら紹介できる。休学して交換留学という形になるけれど、それでもいいなら行ってみないか」と声をかけてくださったことで事態が変わっていきます。私は、休学することを決めました。
その大学でなにができるか、自分のやりたいことと専攻していること、相手が求めている学生像など…いろんなすり合わせをしながら、大学への書類とトビタテの書類作業を並行して進め、ビザの取得などに大忙しの毎日。
無事大学での受け入れが決まり、トビタテにも合格。
晴れて留学生としてフィンランドへ旅立つことになったのでした。
フィンランドに着いた私がやるべきことはただひとつ、「北欧の電力事情を調査すること」。
実は北海道の環境とフィンランドの環境って、似ていることが多いのです。人口や森林面積など比較できるポイントもありますが、北欧では自然エネルギーの普及が進んでおり、多様なエネルギーのあり方が実践されています。
東日本大震災以前の話にはなりますが、原発への依存度が高かったり、本州と離れていることで脆弱な電力事情が度々取り上げられる北海道と何がどう違い、持って帰ることができるものはなんなのか。
半年間という短い滞在期間で、それを発見しにいくのです。
…とは言いつつも。
留学はそう簡単に進めることができるものではありません。たどたどしい英語を使いながら、まずは生活基盤を固めることで精一杯。覚えるべきことややるべきことは山程あります。
その間に一緒に研究をしてくれる先生を探したり、インターンさせてもらえる地元企業を探したりしますが、まったくうまくいきません。
どの先生にも「君の研究テーマは僕とは違うね」と言われ、面倒を見てもらえそうにありませんでした。また、地元の電力会社にも連絡を試みますが、インターンはおろか、施設見学も断られてしまいます。
さて、どうしたものか。どこを足がかりとして電力事情を調査するべきか、と悩んでいるところに、一筋の光が。
同じくトビタテで留学していた男の子から、「デンマークにあるサムソ島という島が面白いらしい。コミュニティパワー(その地域の特性を生かした電力システムや、既存の電力ネットワークから脱した地域住民による電力ネットワークなどのこと)の実践が盛んで、一見の価値ありみたいだよ」との情報が。
まさにわらにもすがる思いですぐにメールを送ります。すると、「だいたいこれくらいの時期ならいるから、来るとき言ってくれ!」とレスが。よっしゃ行くぞ!
こうして、11日間に渡る北欧の旅が始まったのです。
まずは客船でスウェーデンへ渡ります。せっかくならスウェーデンの工業博物館も見学したかったのですが、「冬季なので休みます」とのこと。ビジネスする気あるんかい。
スウェーデンからデンマークへ国際鉄道が走っています。陸続きで国をまたげるってすごいですね。島国育ちには未知の感覚だ……。
首都コペンハーゲンから、陸路でカルンボーという港町に着いたら、小さな船に乗り換えます。サムソ島まであともう少し。
2日半をかけて着いたサムソ島は、夏にはバカンスにうってつけの島ですが、秋や冬には北欧お決まりの天気の悪さ。
港からまっすぐに向かったのは、サムソエネルギーアカデミーです。
そもそもサムソ島がなぜ「再生可能エネルギー100%の島」へと変貌することになったかと言うと、こんな経緯がありました。1970年代に起きたオイルショックにより、多くの国は従来のエネルギー政策を見直していました。デンマークもその一つであり、1970年代に原子力発電を導入するかしないかの大きな議論が起こり、結果的にデンマークは原子力発電から手をひくことになったのです。そこで、デンマーク政府はエネルギー21という政策を1990年代に実施。再生可能エネルギーの普及に努めることになります。エネルギー21によって、デンマーク内のある島で、モデルとして再生可能エネルギー利用の実証実験が始まります。それがサムソ島であり、1998年からたった10年間で目標を達成。サムソエネルギーアカデミーは、そんなサムソ島を「再生可能エネルギー100%の島」へと導いた立役者です。
2011年以降、原発推進派かそうでないか、電力会社の肩を持つか持たないか、そんな極端で無意味な分断が日本で起こっていると感じたわたしは、現状の日本が抱える複雑な電力システムに何か生かせるものはないかと、様々な期待を胸にサムソエネルギーアカデミーを訪問しました。
「そこまで恵まれた環境ではないのに、どのようにエネルギーを流通させているのだろう?」
サムソエネルギーアカデミーでのインタビューや施設見学を通してもっとも刺激的だったのが、サムソエネルギーアカデミーの「使われ方」でした。オランダから皇族が視察に来るほどの著名な建物であるにも関わらず、その空間はとても広々としており、いわゆる研究所のような建物を想像していたわたしには開放的に見えました。
また、今までに行ったサムソ島での会議の方法も独特でした。椅子や机などをおかず、円卓式にぐるっと全員が向き合った状態での会議や、ビールを飲み交わしながらの会議など……。特別なことではないのかもしれませんが、そんな会議の方法に当時のわたしは驚きました。
彼らが実践している方法は、いわゆるコミュニティデザインと呼ばれるデザイン領域を手本にしているように見えました。限りある資源を嘆くのではなく、どうすればその環境の中で、納得のいく暮らしができるのか、ということを、エネルギー政策を通して考えているようでした。
サムソ島に来る前は、「どんな企業がこの自治体に参入しているのだろう?」「どんな電力システムが見られるのだろう?」という疑問を持っていたわたしでしたが、それはある意味で見当違いだったようです。サムソエネルギーアカデミーの人たちは、エネルギー21での目標達成までの間、島民の自宅を一つひとつ訪ね、説明とプロジェクトへの参加を呼びかけました。誰かが強引にトップダウンで決めるのではなく、そこに住む人たちの思いや現場の声を聞くことにより、ボトムアップで島の行く末を決めるやり方は、いわば非常に泥臭いやり方ですが、とても興味深いと思いました。
この出来事がきっかけで、わたしは電気工学からデザインに寄った研究を始めることになります。
前編はここまでです。後編は「ショッキングなインドネシア」なる章から始まります。お楽しみに…!!
寄稿:須藤か志こ(@nomore_more_)
編集:大久保和樹